Friday, August 3, 2007
街録
街中はいたる公園で噴水が人気になる季節。ワシントンスクエアパーク(写真)では、夜にフリーコンサートがあったりして、大学の近く出し人もよく集まります。
さて、最近よく仕事で街録というやつにいくのですが、要は「街の人の声を聞く。」という作業です。これが例えば「ハリーポッターの本を買うのに行列の人に感想を聞く」なんていう任務なら、わりとストレートなんですが、例えば今やっている「ニューヨーカーの夏休みについて調べる」というわりと幅の広いテーマになると、結構やっかいになってきます。
ニューヨークから出すニュースなので、街録のときに気をつけなきゃいけないのは、観光客ではなくて、ニューヨークに住んでいる人に聞く事、1つの人種にかたよらないこと、(もっぱら日本の視聴者は白人が好きなようです。)テレビを見てもらえるようにあまりムサグルしい人とかはやっぱ選べないです。乞食のような人とか、汗だくのおじさんとか、化粧のいきすぎたおばさんとか。
個人的には「誰でもいいじゃん」とか思っちゃう訳ですが、仕事なので視聴者の求めるものを考えると、「テレビを見たくなってしまう人」を選ばなくてはいけないわけです。となると、色々な条件が無意識のうちに自分の中でできあがり、たくさん人が歩いている街でもかなりの人が私のフィルターを通して候補から削りおとされます。
街録をしていると、嫌な気分になることもよくあります。
まずは、声をかける人を選ぶという作業のときに、人を選んでいる自分。
そして声をかけたときに非常に嫌な顔で断られた瞬間。
あとは作業中に変な人に声をかけられ、「チャイニーズかおまえら?」などと傍若無人なことを言われる瞬間。
まあ、こういう瞬間をいちいちプライベートにとっていたらやってられないわけですけど、やっぱり気にしないようにしてもそれなりの精神力を使っている気がします。昔、日本に帰るたびに、促進販売の仕事をよくしていました。クレジットカードを勧めたり、土曜の丑の日にスーパーでうなぎを売ったりする仕事です。
この時代に大分人に声をかけるということ、説明するという事、行動にうつしてもらうということ、この3点は結構鍛えられたと思うのですが、いつになっても「嫌な瞬間」というのはなくならないものです。やっぱり特に人を選んでいる瞬間がつらいです。色々な人が目の前を通って行くときに、隣で待機しているカメラマンに「あの人はちょっと太り過ぎ」「あの人はインド出身ってかんじ」「あの人はあんまり一般ていう感じしない」などなど自分がコメントするたびに、良心が傷みます。
ニューヨークにはみかけでは分からない事をしている複雑な人たちがたくさんいます。それはニューヨークだけじゃもちろんないと思うけど、たとえばインド人に見えたってNY出身でNYで育ったひとなんてワンサカいるし、日本人に見えたって日本に行ったことない人だってそこらじゅういます。
そういう暮らしていてあたりまえのことや、NYの本質をゆがめた形で画面に映し出しているという作業は、本当、心もとないことです。すごく時代おくれだと思うし。でも、
○○王子とか、コンビニ最新デザート特集とか、○○さんが挙式していたとか、そういう話をもとめている視聴者には、そんなNYの本質がどうこう言ってもしょうがないのかなって思うこともあります。
自分が伝えたい事を伝える、っていうことと、視聴者が見たいものを作るっていうのは別の事だと思う。それがうまく重なればとても素敵だけど、今してる仕事ではどうも「自分の伝えたい事」っていう部分がすごく薄いし、フラストレーションを感じます。「視聴者が見たいものを作っていればいいのか?」
消費者が力を増して行く世の中で、私のやりたいことは消費者に満足してもらうことを作り出すことなのか、消費者に問題提示をしたり、リードをできるような作品を作りたいのか、その2つの線をどう絡ませて行けばいいのかは、これからの自分の課題です。
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