"How was your day?"一日に一回は必ず聞かれる。まぁ、深い意味はなく、これもまた、「元気?」や「久しぶり!」くらいの挨拶程度の意のことが多いのだろうが、英語を喋っていると、いまでも会話を意識して分析してしまう癖がある。「この人 やたらこの言葉使うな。」とか「この人これ本気で言ってないな。」とか日本語よりも客観的に相手の台詞を受け止めてしまうときがある。
言葉に限らず、街を歩いていても目にする光景を第3者として受け止めてしまうことがある。それは日本人としてでもなく、ニューヨーカーとしてでもなく、自分として、観察しているわけだが、日本人でもアメリカ人でもない自分はなんだか自分の中では「第3者」なのだ。
先日の日記に対して、友人からメールが来た。「誰に見られているかよく分からない恐怖感を拭って正直に気持ちを書いていきます。」とのような具合のことを書いた文章についてで、彼女はブログやソーシャルネットワーキングをやっていて、そのプレッシャーに耐えられなくてすべてをやめた、とメールに書いてあった。もちろんしばらく自分の思うことを書いて来た私も、幾度となく同じことを思ったことがある。「ブログ、やめよう。」と。
初めて自分のことをウェブサイト書き始めたきっかけは、アメリカに来て、日本にいる友達に自分のやっていることや考えていることを伝えたかったからだ。最初は手紙や、ファックスを書いていたわけだが、(当時はまだメールやらブログやらそんなに普及してなかったからね。6年くらい前か。)同じことを何度も書いているうちに、面倒くさいのと、自分の書きたいことに対する情熱が薄れる感覚がいやで、ウェブサイトを使うようになった。
ウェブで自分が思うことを書くことの便利さは、誰でも簡単に見られること、時差がないこと、写真も簡単にシェアできること、見たい人が自由に好きなときに見られること、色々な人の感想をもらえること。ウェブで書き始めてジレンマを感じることは、読み手を意識するようになったこと、自分の良くないと思う部分もよく見せて書こうとするようになったこと、心のこもっていない記入をするようになったこと、などだ。
「見られたくない人に見られている。」と友人に言えば、「読んでもらいたくて書いているんでしょう」と一蹴されるし、「書くのをやめる。」と言えば、「楽しみにしているから続けて!」と励ましてくれる友人もいるし、そんな狭間でなんだかんだずっと書き続けて来た。その根底には私の「共有欲」があったからだと思う。
ウェブにしても、紙にしても、映像にしても、何かしら私は自分の言いたいことを綴り続けて来た。それの完成度はまた、棚にあげつつも、(笑)その行為をgive upしたことはないし、give upするすれすれで共有欲にひっぱられてきた、と言った方が正しいか。私の場合は常にアウトプットしてることで、自分がホッとできる居場所を確保できるというか、落ち着く。
昨年末から意外な人に、「ブログあるんだって?」とか「ブログ読んでます。」と言われる機会が重なり、ちょっと心にずしんと重しがきたわけです。私は結構忘れっぽいので、あまり普段はそこまで読者層を意識してものごとを書かないわけですが、今回はあまりにも意外な読者層がいたので、ちょっと脳みそがうにょうにょしたわけです。しかしながら寒空の道をぼーっと歩いてたらば、何を書こうが文字は「私」の一部なわけで、もっとリラックスして書けばいいじゃ〜んというなんともお気楽な結論にたどり着いたのでした。
どんなアートにしても、表現にしても人は他の人に触れてほしいからつくるものだと思うのです。ストリートアートでも、音楽でも、文章でも、料理でも他の人に触れられること、はじめて自分以外のものとコンタクトできることに喜びがあるのだと思います。だから、どうせ産むのなら気取るのではなく、自然でいるのがすくなくともサクラスタイルかな、と思ったのでした。う〜ん、勝てない、共有欲!
No comments:
Post a Comment